最も著名な投資家といえば、ウォーレン・バフェットの名前が口をついて出るだろう。
その他にも、ベンジャミン・グレアム、ピーター・リンチなど史上に残る世界的投資家の存在があがる。
しかし、偉大な日本人投資家はと尋ねられて答えられる人は少ないのではないだろうか。
だが、忘れてはいけない。日本人はコメ相場にはじまり、古くから相場とともに生きてきた。
日本人にはマーケットに強いDNAが眠っているのである。
日本の偉大な投資家は歴史を紐解くと「相場師」と呼ばれてきた。
本間宗久、伊東ハンニ、福島浪蔵、山崎種二、渋沢喜作、野村徳七・・・多くの相場師達が今日の市場の礎を築いてきた。
その中でも、波乱万丈の人生に翻弄されながら、どこまでも相場に真剣に向き合って生きた「是川銀蔵」の生涯をハイライトし、投資家あるいは金融に携わる者が学ぶべき点について考察してみたい。
是川銀蔵の生涯
まずは、是川銀蔵氏の生涯を紐解いてみたい。
以下、是川奨学財団HPから一部引用の上、氏の生涯をハイライトする。
1897年:兵庫県赤穂市で零細漁師の7人兄弟の末っ子として生まれる。
1912年:14歳で神戸の貿易商に入社、その会社が倒産
1914年:中国で大金を稼ぐが、第一次世界大戦の戦乱に飲まれ無一文に
1919年:大阪で鉄ブローカーをしながら、伸鉛・亜鉛メッキの工場を経営
1927年:昭和金融恐慌が起こり、取引銀行倒産の余波を受け、廃業。
生活苦の中で3年間図書館に通いつめ、経済学を独学する
1931年:大阪で株取引をはじめ70円の元手を7000円に膨らます
1933年:是川経済研究所を設立
1938年:朝鮮に是川鉱業を設立。鉄工所・鉱山を経営。大企業となる
1945年:太平洋戦争敗戦により全財産没収・投獄。戦時中より差別をしなかった為、朝鮮人従業員らの 除名嘆願により助けられる
1960年:株取引を再開
1976年:資金6億円に増加。うち3億円を日本セメント(現太平洋セメント)株へ投資し、翌年30億円の利 益を得る
1978年:養護施設の児童に寄付を開始。79年には是川福祉基金(現是川奨学財団)を設立
1981年:住友金属鉱山株を買い占め。翌年、200億円の利益を得て、83年に長者番付1位となる
1992年:9月12日死去。享年95歳
公益財団法人:是川奨学財団より引用
太字ばかりになってしまった・・・
もはや波乱万丈という言葉では足りない。成功と失敗のジェットコースター状態・・・
這い上がろうとする度に歴史の流れに翻弄され、どん底に突き落とされる。そしてまた這い上がる。
無一文、生活苦を何度も経験し、ゼロから仕切り直しているのである。そして、晩年には長者番付1位である。
何かサクセスの仕方を心得ているようにも思えるし、そうして鍛えられた眼力で市場、銘柄を見極めることができたのだろう。
経歴をみると、終戦後の1960年あたりからは順調に成功していくことになるが、
経済復興のタイミングで投資したからよかったという単純なものではなく、実業での経験、痛い目に遭いながら経済変動を見つめ、探求してきた成果だと感じられる。
是川銀蔵に学ぶこと:探求心の深さ
是川銀蔵から学ぶべき点として、まず「探求心の深さ」を挙げたい。
是川氏はやると決めたら徹底的にやる性格で、1927年に昭和恐慌で会社が廃業した時には生活苦の中にありながら大阪中之島の図書館に3年間通い詰めて、独自のマクロ経済観を作り上げている。
是川氏は昭和恐慌に巻き込まれて廃業したこともあり、経済変動への関心が強くなっていた。
しかしこの時点においては、経済学について勉強した経験は全くなかった。
また、会社を廃業してはいるものの、理解ある債権者が揃っており事業の継続を応援されていたが、それを断ってまで独学の道を選んでいる。
そして、先生などいない中で書籍を読み漁り、独学のみで経済変動は一定の周期で起きることを突き止める。
経済変動の波は、当時は学者くらいしか意識しなかった領域である。
これを事業経営の中で勘付いて、独学において突き止めてしまったのだ。
株式投資で利益を得た後で、是川経済研究所を設立しているがこれもピークでは研究員が50人いるシンクタンクに成長している。
実績もさることながら、何より敬意を表す点は自ら独自の経済観を作り上げた点である。
これがその後の相場師としての成功を支えたのは言うまでもない。
是川氏は実践派エコノミストを自称していたようだが、彼ほど理論と実体経済が結びついている有識者がいるだろうか。
彼の人生経験が実態経済そのものともとれるので、自分の身に起こったことを突き止めることが根本にあったのかもしれない。
なんと本質的な勉強であろうか。
彼が生きた時代に比べれば現代は遥に知識・情報へのアクセスが容易になっている。
ここまでの徹底ぶりはそうそう真似できるものではないが、これはという知識に関しては貪欲に噛り付いていきたいものである。
是川銀蔵に学ぶこと:得意分野に集中した投資
是川銀蔵は、得意分野に集中した投資で成功をおさめており、この点も意識しておきたい。
是川銀蔵を語る上で外せないエピソードとして、晩年の住友金属鉱山への投資がある。
鉱山開発、精錬業の銘柄であるが、これは彼が長年経営してきた鉄工所、鉱山経営の見識が存分に活かせる銘柄である。
是川氏は、当時の金属事業団(現JOGMEC)が菱刈鉱山に金鉱脈を発見したのを小さな新聞記事で見つけ、現地に赴いて視察する。
その際、現場責任者からは話をはぐらかされるのだが、経験と勘が上回っており有望な鉱脈であると確信し株式を買い集めに動くのである。
その後、読み通りに鉱山開発が実現し、株価は大幅上昇を遂げる。
確かな経験と勘に基づいた見事な相場師ぶりだ。
ウォーレン・バフェット然り、理解できない銘柄には投資してはいけないという基本を厳守している。
これだけの達人であっても、全く知らないフィールドには手を出さない。
得意分野で勝負することが勝率に直接跳ね返る。
知らない銘柄には手を出さないことは常に意識下に置かなければならない。
ただ一点、前段でも述べたが現代を生きる我々は、情報収集には恵まれた環境下にいる。
はじめは知らない銘柄でも納得いくまで勉強すれば、手が出せないものではなくなる。
闇雲な投資は絶対にいけないが、狭い分野だけに固執することはないということも勘違いなきよう付言しておきたい。
是川銀蔵の信条
名投資家、相場師は名言・信条を持っていることが多い。
是銀(コレギン)の「カメ三則」について紹介する。
・銘柄は水面下にある優良なものを選んでじっと待つ
・経済、相場の動きから常に目を離さず自分で勉強する
・過大な思惑はせず、手持ちの資金の中で行動する
あらゆる名投資家が異口同音に発する基本ではないだろうか。
百戦錬磨の相場師の言葉。シンプルだが重みがある。
是川銀蔵についてまとめ
- 是川銀蔵は二度三度と富を手にしたかと思えば、生活苦に陥り、その度に這い上がった。鉄ブローカー、鉄工所、鉱山経営などを営み時代に翻弄されながら実業でも成功をおさめた。
- 3年間図書館通いを続けて独力で経済学を身に付け、是川経済研究所を興すまでになる。戦争を挟みながらも株取引を続けて資産を育て、1983年には長者番付1位となる。
- 探求心の深さを見習うべし。是川氏は勉強できる環境下でなくとも独学のみで経済学を身に付け、投資家としての成功を支えることとなった。情報収集・勉強環境に恵まれた現代、貪欲に知識を貪りたい。
- 得意分野に集中した投資も是銀の特徴。勉強してチャンスの幅を広げていくべきだが、分からないものへの投資はせず、理解できる分野に投資することが大事。
是川銀蔵の生きざま、哲学が学べる本(当記事も参考にしています。)>>>
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